困っている人によりそい、切実な思いを市政にとどけます
震える手で書く申請書
私が共産党候補になりたての頃、何とか区民の願いを実現する手助けにと「生活相談」に取り組みました。そんな折、一人の女性が相談に訪れました。
「一生懸命働いてきましたが、生活相談が益々大変になり、区役所に相談に行きました。担当の職員から『もう少し頑張ってから来てください』と言われ、その後しばらく働きましたが、もう限界です」と言うのです。さっそく、区役所へ生活保護申請に同行しました。
その女性は申請書類に記入しようとするのですが、緊張のためボールペンを持つ手がぷるぷると震え、書くことができません。私は、その女性に代わって申請書類に記入しました。
この経験から『声に出せない弱者の思いを市議会に届けるのが私の使命』と改めて決意しました。
「生活相談」は300件を超えました。
貧しくも優しく頼もしい人たちに包まれて
父が建設労働者で母は飯場で「まかない」をしていました。ですから、現場が変わるたびに「引っ越し」するので、あまり友達と遊ぶことができませんでした。
小学5年の夏、母も現場で遅くなったので手伝いをしようと薪ストーブで初めてご飯たきをした時のことです。
結果は無残にも失敗。「生煮えのおこげご飯」になってしまいました。そんな私の失敗に、「ひろ子ちゃんも、母さんの手伝いができるようになったんだな。うんめえ、うんめえ」
働く人の優しさが伝わってきました。
4人の子育てで感じた母親と女性の切なる願い
高校を出て、すぐに働きにでました。高度成長期の日本、働く若者は元気一杯でした。人形劇サークルに入り社会の矛盾について語り合ったりもしました。そんな青春まっただ中で共産党に出会いました。そして、結婚。4人の子どもに恵まれました。
子育てのよろこびと共に大変さも同時に感じながら、PTA活動にも積極的に参加しました。
女性運動では『真栄小学校に障がい児学級をつくって』の願いに応えて、お母さんたちと一緒に取り組み実現させました。
「働きたくても子どもを預ける保育所がたりない」「一度辞めたら職場復帰がむずかしい」など、女性にかかる様々な矛盾を感じていました。
「解決のために政治を変えなければ・・・」
そんな私に共産党から市議会選挙に立候補の打診がありました。今から8年前のことです。
戦争のない未来を
昨年の7月1日、安倍政権は、平和憲法をこわす「集団的自衛権行使容認」を閣議決定しました。多くの国民が不安を感じています。
今年の7月、3人目の孫ができました。
「この子のためにも、悲惨な戦争の時代に絶対に戻してはならない」と、安らかな寝顔をのぞきながら思わずにはいられません。
人生を応援する社会に
Kさんは52歳、会社の管理職でした。パートさんを辞めさせるための気の重い出張から札幌に帰る途中、脳梗塞で倒れました。1年のうち休みは1週間たらずで「Kさんが座って昼食をとっているのを見たことがない」と職場の方が話していたと言います。こんな働き方をさせながら、会社はご家族をだましてまで、労災認定をさせないよう妨害しましたが、組合の力も借りて労災の適用をさせました。
Kさんは左半身が不自由になりましたが、一命はとりとめ、「働けるようになるまで頑張る」とリハビリに励む毎日を送っています。
働く人を使いつぶす「ブラック企業」も、ブラック企業を野放しにする政治も変えなければなりません。
安倍政権打倒に全力
昨年、安倍政権が解散・総選挙に踏み切ったのは、あらゆる分野で民意に背く暴走を重ね、世論と運動に追い込まれた結果でした。
その総選挙で、私は衆院北海道3区への立候補を要請され、私は、国政選挙の候補者として全力を尽くしました。
その結果、日本共産党は8議席から21議席へと躍進し、北海道では畠山和也衆院議員が誕生。私も3万271票、清田区では6668票を獲得し、この躍進に貢献することができました。とても充実した約1カ月間でした。ご協力いただいたすべての人たち、ご支持いただいた人たちには感謝の言葉もありません。
再び市議会議員への挑戦へ
総選挙での躍進を力に、4月のいっせい地方選挙で、日本共産党がさらに前進することは、国民が主人公の日本への道を大きく切り開くことにつながります。
また、なによりも、住民の声をまっすぐ自治体にとどける日本共産党の議席は、自治体が安倍暴走政権の悪政から住民のくらしと権利をまもる防波堤の役割を果たさせるための役割を担っています。
市議会から清田区の日本共産党の議席がなくなってから8年。今度こそこの議席を回復し、札幌市全区で前進ができれば、議会の中でもその比重をまし、市民のみなさんのために大きな仕事をすることができます。
「安倍自公暴走政権ノー」「若者に希望、子育てにやさしい、お年寄りが安心してくらせる街へ」の願いを私、吉岡ひろ子に託してください。